先ほど、車を運転していたところ…
お昼時なこともあり、信号で小さな渋滞が起きていた。
道路の左側にはレストランとガソリンスタンドが併設されており、そこに入りたい車と出たい車と、信号待ちしている車と…。それぞれの車が身動きが取れない状態。
私はちょうどレストランの駐車場の出入り口付近にいたので、レストランから出たい白いワゴン車を前に入れてあげることにした。運転手さんは手を挙げてお礼をしてくれた。
それを見て私も幸せ。ハッピー( *´艸`)
…と思ったのもつかの間、反対車線に停まっていた車が窓を開けて私にこう言った。
「前につめて!」(後ろを指さしつつ)
どうやら今度は後方で、ガソリンスタンドに入りたい車が道を開けて欲しいようだった。
あらあら、と思い私は白いワゴン車の方へ車間距離を詰めたのだが…。
私は不覚にもその時「おじさんしかめっ面だし、何なのよ」と思った。
私は白いワゴン車を前に入れてあげる一方で、後ろと前と両方を気にすることなど無理だよと感じた。
自分の視野では、全体の一部しか見えていない
だけど、ここで気づくべきなのはそんな『感情的な部分』ではない。
みんなそれぞれが、自分の注目している事象しか見えていないのである。
私は白いワゴン車、おじさんはガソリンスタンドに入りたい車。
自分に見えている事象にとって正しいことをした結果、違うことを見ている人とは対立が起きる。
だけど、よくよく考えれば、両方の事象はお互いに絡み合っていて、「白いワゴン車を優先すれば、ガソリンスタンドに入りたい車は動けない」「ガソリンスタンドに車が入れれば、白いワゴン車は道に出れない」という別々の事象のようで一つの事象なのである。
それなのに私達は、事象の『部分』ばかりに目を奪われることで、相手が間違っている・自分は正しいと思い込む。何とも”ちっぽけな話”である。
もっと言えば、私はおじさんがしかめっ面で、怒っているように感じた。
しかし、おじさんは普段からしかめっ面であり、本当は優しさから『私が見えていなかった事象を教えてくれた』のかもしれない。私が勘違いしただけの可能性もある。
それは相手と話して、直接意図を聞いてみないと分からない。
うん、本当はどんな行為も、相手の意図を聞かなければ本当の事なんて一つも分からないのだ。
私はもうおじさんから「前につめて!」と言った時の感情や意図を聞くことはかなわないけど、こうやって物事を俯瞰的にとらえられると心が落ち着く。
私もまだまだ未熟だなぁ~。笑
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